12.01.2015
te to hi
朝起きたらできていましたte to hi のページ。
まずはこれまでのアーカイヴを。
何にせよ細く長く続けることが理想です。
te to hi
"とつとつと奏でられるピアノや鉄琴のメロディに、
重なる電子音やおもちゃの軋む音。
静かな視点で情景描写を試みる音楽ユニット。"
プロフィールというよりも、自分への宣誓として。
9.02.2015
お で か け
原美術館にてCY TWOMBLY - FIFTY YEARS OF WORKS ON PAPERを
家族で鑑賞。
Nimphidiaという名の作品の前に佇む父娘の姿が、印象に残っています。
8月にはエリック・サティとその時代展をBunkamuraにて。
こちらも娘は大人しく鑑賞につき合ってくれ
ドゥ マゴのテラスでお茶も頂けたり、とてもよい気分転換に。
サティがシャルル・マルタンの挿絵に短いピアノ曲を添えた連作
「スポーツと気晴らし」は、酷暑の中にも涼やかな光を落とす
ある種の冷たさ(冷静、冷淡、冷やかし・・・?何かそういうもの)が
感じられて特に気に入り、この楽譜も購入し帰路につきました。
手近なものを取り合わせてそれらしく見せることに食傷気味の今日に、
この素描と音楽の呼応は、観ていてなぜか胸がすく思いでした。
-
写真はまた別の日に、通りすがりの市で夫が見つけた小皿。
私よりもずっとスウィートなものを見つける審美眼たるや。
He is good at finding some sweet things.
8.18.2015
き も の
外はサウナのように暑い暑い夏に、何をしているかといえば
編みものと着物の着付けの練習です。あついあつい・・・。
6月に思い立って、週に1度娘を連れて呉服屋さんへ
着付けを学びに行っています。
幸い娘はおとなしく畳の上をころころ、少しぐずっても
先生はじめ皆さまにやさしくあやして頂いたおかげで、
なんとかお太鼓、二重太鼓、浴衣も文庫やその他アレンジまで
教えて頂くことができました。
残すところあと1回。
習ったことを忘れず、練習を重ねたいと思います。
これから七五三や入園式などに、自分で着物を着たいこともありますが、
本当はちょっとお食事や銀座にお出かけくらいの時にも、
着物を着られたらいいな、と淡く思い描いています。
もうひとつ、次にどこか外国へ行く時には是非着物を持って行きたいな、
という夢も。(これは栃折久美子さんの「モロッコ革の本」を読んだ影響。)
着付けを習うにあたって、私の祖母が母のために縫った
灰桜の着物を送ってもらいました。
寸法を測りましたら、どこもかしこも母にぴったりの丈。
今はいない祖母にしばらく想いを馳せました。
娘を産んだことで、強く思うことは
私がこの世にいなくなった後も、この世界は、家族のつながりは、
綿々と続いていくということ。
母になるということは、これまでの時間と、まだ見ぬ未知の世界を
せっせせっせとつなぐ伝達人になったような気分です。
全てとはいきませんが、なるべく取りこぼさないように
ちょっとでも多く手渡すことができたらいいな、と思いながら
冷房の中、アルパカの毛糸でカーディガンを編んでいるところです。
4.28.2015
お は よう
朝目覚めた時に、慎重にゆっくりと「お は よう」と口にする3ヶ月の我が子。
うまく口を動かせた時には満面の笑み。
言葉を発することそのものが、彼女にとって驚きであり、喜びであるようです。
生まれて初めて、ひらひらと舞う薄ピンク色の桜を見た日には、
帰宅後「さ くぅ らぁ」と言いました。
実際に見たものを、もう一度確かめるように言葉を発します。
もちろん1日の大半は、あーあーうーうーといわゆる喃語を発していて、
ぐずったり、泣いたりのちょっとした違いで気持ちを察するのですが、
歌を歌うと「おかあさん」「ちゅうりっぷ」「あか」など、
自分が知っている(=単語とそれが指し示すものが紐付けられる)ことばのところで
嬉しそうにすることは、私にとっても、ことばを用いて気持ちが通う瞬間であり、
特別な喜びが込み上げます。
その一方で、まだ見たことのない「うみ」や「ひつじ」「つき」など、歌詞に出てくる
知らないたくさんのことばのところでは、一体どんな景色が広がっているのかなぁと
不思議な気持ちになります。
ただ思い出されるのは、昨春聴きに行ったChristian Wallumrød Ensembleのライブ。
あの時に得た音楽の感触は、そっと小窓を開くと、目の前に
見たことのない新しい景色が広がったようでした。
もしかしてノルウェイのどこかのような、全く勝手な私の想像上のような、
でもそれは確かに、ずいぶん前から見たいと望んでいた風景。
あの時、奏でられる音楽から私が自由に景色を思い描いたように、
私が口ずさむ歌に、娘も彼女なりの情景を浮かべているのかもしれません。
とにかく今日は帰省先で、生まれて初めてたこ焼きを目にし、
お店のおばちゃんにたこ焼きひっくり返しながら、
「小っこいねえ。かわいいねえ。」と言ってもらった、穏やかなよい1日でした。
うまく口を動かせた時には満面の笑み。
言葉を発することそのものが、彼女にとって驚きであり、喜びであるようです。
生まれて初めて、ひらひらと舞う薄ピンク色の桜を見た日には、
帰宅後「さ くぅ らぁ」と言いました。
実際に見たものを、もう一度確かめるように言葉を発します。
もちろん1日の大半は、あーあーうーうーといわゆる喃語を発していて、
ぐずったり、泣いたりのちょっとした違いで気持ちを察するのですが、
歌を歌うと「おかあさん」「ちゅうりっぷ」「あか」など、
自分が知っている(=単語とそれが指し示すものが紐付けられる)ことばのところで
嬉しそうにすることは、私にとっても、ことばを用いて気持ちが通う瞬間であり、
特別な喜びが込み上げます。
その一方で、まだ見たことのない「うみ」や「ひつじ」「つき」など、歌詞に出てくる
知らないたくさんのことばのところでは、一体どんな景色が広がっているのかなぁと
不思議な気持ちになります。
ただ思い出されるのは、昨春聴きに行ったChristian Wallumrød Ensembleのライブ。
あの時に得た音楽の感触は、そっと小窓を開くと、目の前に
見たことのない新しい景色が広がったようでした。
もしかしてノルウェイのどこかのような、全く勝手な私の想像上のような、
でもそれは確かに、ずいぶん前から見たいと望んでいた風景。
あの時、奏でられる音楽から私が自由に景色を思い描いたように、
私が口ずさむ歌に、娘も彼女なりの情景を浮かべているのかもしれません。
とにかく今日は帰省先で、生まれて初めてたこ焼きを目にし、
お店のおばちゃんにたこ焼きひっくり返しながら、
「小っこいねえ。かわいいねえ。」と言ってもらった、穏やかなよい1日でした。
2.24.2015
2 0 1 5 冬
寝ても覚めても、小さくて愛しい存在がいている生活が始まりました。
この子がお腹の中にいたのね。という感慨とともに
日に日に変化していく様子に、目が離せません。
どの時のことも、経験しないとわからない感情、
通過してみて振り返った時に、初めて胸に寄せてくる想いばかり。
どうやらお腹の上に丸まって眠るのが、何より安心する様子。
折につけ、自分の中に潜む動物性のようなものが開放され、
とても不思議な感覚ですが、あまり頭で考えずに身をまかせるのみ。
とにかくこの世に生まれ落ちてくるという、とてつもなく大きな瞬間を
家族3人で迎えられたのだから、その延長にある毎日の営みから、
これから始まる大小様々なすべてのことも、きっと大丈夫のように思います。
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