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9.05.2019

秋の訪れに


夏生まれなので暑い夏も心躍るのですが、秋の気配が近づいて、すっと全てが落ち着いていく感覚も大好きです。

娘の夏休み中はひとり課題図書として「よくできた女」読了。これは好みがはっきりと分かれそうですが、ひとり暮らしの30代女性が戦後イギリスで慎ましやかに暮らす中、よくよく人間観察をして胸の内ですっかり思いの丈を吐露する様は、飾らない本物の人生を垣間見るようでした。そういえば娘の絵本の好みも、なんとなく人生が感じられるような、暮らしがそこにしっかりと根付いている物語を、繰り返し読んでいる気がします。

夏の終わりに岩波ホールで映画「聖なる泉の少女」をひとり鑑賞した際にも、清涼な風が心に吹き込みました。ジョージアの山村に滑らかな水を讃える泉と、そこに仕える少女の心の機微を捉えた物語。言葉少なに進められる情景描写に、いつしかわずかな衣ずれの音にも耳を澄ましており、館外に出た時の町の喧騒には少し怯んでしまうほどでした。

とはいえ場所は神保町。久しぶりに訪れたのでいつまでも滞在できそうでしたが、そうもいかず、足早に見たいところを、かいつまんで巡りながら、音楽や舞台芸術にまつわる書籍が多く扱われている書店にてバレエの練習曲の楽譜を見つけました。バレエは華々しい舞台にも、もちろんうっとりしますが、コツコツと練習を重ねる際のピアノ曲は聴いていて飽きることがありません。少しは自分で弾けるように、というのがこの秋のひとつの試みです。

9.13.2017

あなただけの



土曜日の夕方、神保町へひとり出向き、
映画"静かなる情熱 エミリ・ディキンスン"を鑑賞。
映画を観る時間、本を読むひとときは、いつも流れている時間よりも
少しだけその時が膨らんでいるような気がします。 

さらに詩人エミリ・ディキンスンの、内に秘めた言葉が
抱えきれずこぼれ落ちたかのような朗読に、耳を澄ませるおよそ2時間は
静謐で心潤うものでした。 

帰宅してから、少し前に入手した"Emily Dickinson; Envelope Poems"のページを
改めてめくり、走らせたであろう鉛筆の音を想像したり。 

ちょうど映画が始まる前に、喫茶店で読み終えたジュール・ヴェルヌの小説"緑の光線"の
クライマックスの場面の日付が、まさに私がページを開いた日付と一致していたことも
読書の楽しみをささやかに噛み締めた瞬間でした。 

もともとエリック・ロメールの映画"緑の光線"の中で、ヴェルヌの"緑の光線"が
話題となっていたことから読み始めた1冊。
映画の中でも、緑の光線にたどり着くまでに、道端に落ちていた緑のカード、
その日に着ていた緑の服...とまるで道しるべかのように現れる緑色のものに
気を留める主人公に、私も心をなぞらえていたので、 そういった本と映画を
行き来する時に出会う些細な偶然が、余計に嬉しく感じられました。 

徐々にTVやDVDなどの映像の魅力に取り憑かれつつある2歳の娘ですが 、
変わらず絵本を読むことにも熱を注いでおり、
最近見つけて読んだ ベアトリス・S・ド・レーニエ"あなただけの ちいさないえ"が
私自身がそうそうそう!と思わず相槌を打ちたくなるような
詩的な言葉がたくさんで、心に響きました。

家族や友達に囲まれていても、時々ひとりになりたいと思う時がある。
そんな時にはあなたがあなただけのいえを持っていれば、
どんなに良いでしょう。そしてそのいえはテーブルの下、
木の上、お面をかぶったり、毛布に隠れているときに現れるのですよ。と
やさしく語りかけるのです。

今も目には見えない赤ちゃんをお風呂に入れたり、
突然ひとりで誰かと電話する話し声や、お買い物をするやりとりを
聞かせてくれる娘ですが、その延長でこの先も
自分だけのいえを持つことで、心を強くして居られると良いな、と
見守っています。

今朝の朝食時、バターケースを眺めながら
「バターがおうちでねんねしてるね。」という娘の言葉も、
そのまま冷蔵庫にとっておきたい気持ちになりつつ、
私も時々自分だけのいえに心を置くことで、また新鮮な気持ちで
日常に向き合える気がしています。


** 写真は絵本"あなただけの ちいさないえ"の扉に
 娘によって大胆に描かれていた、泣いているお顔。

9.02.2015

お で か け



原美術館にてCY TWOMBLY - FIFTY YEARS OF WORKS ON PAPERを
家族で鑑賞。
Nimphidiaという名の作品の前に佇む父娘の姿が、印象に残っています。

8月にはエリック・サティとその時代展をBunkamuraにて。
こちらも娘は大人しく鑑賞につき合ってくれ
ドゥ マゴのテラスでお茶も頂けたり、とてもよい気分転換に。

サティがシャルル・マルタンの挿絵に短いピアノ曲を添えた連作
「スポーツと気晴らし」は、酷暑の中にも涼やかな光を落とす
ある種の冷たさ(冷静、冷淡、冷やかし・・・?何かそういうもの)が
感じられて特に気に入り、この楽譜も購入し帰路につきました。

手近なものを取り合わせてそれらしく見せることに食傷気味の今日に、
この素描と音楽の呼応は、観ていてなぜか胸がすく思いでした。


-
写真はまた別の日に、通りすがりの市で夫が見つけた小皿。
私よりもずっとスウィートなものを見つける審美眼たるや。
He is good at finding some sweet things.

8.18.2015

き も の


外はサウナのように暑い暑い夏に、何をしているかといえば
編みものと着物の着付けの練習です。あついあつい・・・。

6月に思い立って、週に1度娘を連れて呉服屋さんへ
着付けを学びに行っています。
幸い娘はおとなしく畳の上をころころ、少しぐずっても
先生はじめ皆さまにやさしくあやして頂いたおかげで、
なんとかお太鼓、二重太鼓、浴衣も文庫やその他アレンジまで
教えて頂くことができました。
残すところあと1回。
習ったことを忘れず、練習を重ねたいと思います。

これから七五三や入園式などに、自分で着物を着たいこともありますが、
本当はちょっとお食事や銀座にお出かけくらいの時にも、
着物を着られたらいいな、と淡く思い描いています。
もうひとつ、次にどこか外国へ行く時には是非着物を持って行きたいな、
という夢も。(これは栃折久美子さんの「モロッコ革の本」を読んだ影響。)

着付けを習うにあたって、私の祖母が母のために縫った
灰桜の着物を送ってもらいました。
寸法を測りましたら、どこもかしこも母にぴったりの丈。
今はいない祖母にしばらく想いを馳せました。

娘を産んだことで、強く思うことは
私がこの世にいなくなった後も、この世界は、家族のつながりは、
綿々と続いていくということ。
母になるということは、これまでの時間と、まだ見ぬ未知の世界を
せっせせっせとつなぐ伝達人になったような気分です。
全てとはいきませんが、なるべく取りこぼさないように
ちょっとでも多く手渡すことができたらいいな、と思いながら
冷房の中、アルパカの毛糸でカーディガンを編んでいるところです。


4.28.2015

お は よう

朝目覚めた時に、慎重にゆっくりと「お  は  よう」と口にする3ヶ月の我が子。
うまく口を動かせた時には満面の笑み。
言葉を発することそのものが、彼女にとって驚きであり、喜びであるようです。

生まれて初めて、ひらひらと舞う薄ピンク色の桜を見た日には、
帰宅後「さ  くぅ  らぁ」と言いました。
実際に見たものを、もう一度確かめるように言葉を発します。

もちろん1日の大半は、あーあーうーうーといわゆる喃語を発していて、
ぐずったり、泣いたりのちょっとした違いで気持ちを察するのですが、
歌を歌うと「おかあさん」「ちゅうりっぷ」「あか」など、
自分が知っている(=単語とそれが指し示すものが紐付けられる)ことばのところで
嬉しそうにすることは、私にとっても、ことばを用いて気持ちが通う瞬間であり、
特別な喜びが込み上げます。

その一方で、まだ見たことのない「うみ」や「ひつじ」「つき」など、歌詞に出てくる
知らないたくさんのことばのところでは、一体どんな景色が広がっているのかなぁと
不思議な気持ちになります。

ただ思い出されるのは、昨春聴きに行ったChristian Wallumrød Ensembleのライブ。
あの時に得た音楽の感触は、そっと小窓を開くと、目の前に
見たことのない新しい景色が広がったようでした。
もしかしてノルウェイのどこかのような、全く勝手な私の想像上のような、
でもそれは確かに、ずいぶん前から見たいと望んでいた風景。

あの時、奏でられる音楽から私が自由に景色を思い描いたように、
私が口ずさむ歌に、娘も彼女なりの情景を浮かべているのかもしれません。

とにかく今日は帰省先で、生まれて初めてたこ焼きを目にし、
お店のおばちゃんにたこ焼きひっくり返しながら、
「小っこいねえ。かわいいねえ。」と言ってもらった、穏やかなよい1日でした。

2.24.2015

2 0 1 5 冬



寝ても覚めても、小さくて愛しい存在がいている生活が始まりました。
この子がお腹の中にいたのね。という感慨とともに
日に日に変化していく様子に、目が離せません。

どの時のことも、経験しないとわからない感情、
通過してみて振り返った時に、初めて胸に寄せてくる想いばかり。


どうやらお腹の上に丸まって眠るのが、何より安心する様子。
折につけ、自分の中に潜む動物性のようなものが開放され、
とても不思議な感覚ですが、あまり頭で考えずに身をまかせるのみ。


とにかくこの世に生まれ落ちてくるという、とてつもなく大きな瞬間を
家族3人で迎えられたのだから、その延長にある毎日の営みから、
これから始まる大小様々なすべてのことも、きっと大丈夫のように思います。



3.29.2014

も う す ぐ





もうすぐ終わりを迎えるユトレヒトで働く日。

かつて京都で思いを馳せ、手の届かなかった東京の世界に
今やすっかり当たり前のように腰をおろしている不思議は
9年経ても未だ拭えませんけれど。

日の当たらないところに、たゆまぬ努力や心からの献身があって、
現代社会からすると、なんと不器用な。と映ることもたくさんありますが、
どれだけビジネス書などを読み尽くしても会得できない
ユトレヒトならではの仕事のしかたを学んだように思います。

何をしているかよくわからないけれど、"何か"してる。
それで個として存在できることこそ、目指すところなのかもしれません。

あんまりにわたしの仕事のかたちがあいまいで、これまでの蓄積も
もしかしてあぶくのように消えてしまうかもしれませんが、
ユトレヒトを通じて出会ったたくさんの人達とのつながり、
つながるべくしてつながったものは
これから正に本当のものになっていくことと信じています。

3.11.2014

今 日



編みものに没頭する時間が増えることと比例して
家でピアノを弾く時間がめっきり減ってしまいました。
どうやらどちらも似たような作用が働くよう。

考えてみると、編みものをしながらたまたまTVで放送されている
外国の古い映画やドラマ(ミス・マープルなどが流れているとうれしい。)を
流し見しつつ、そこにはコーヒーの匂いがして、ちょっとおやつを齧って・・・
という一連のことは、すべてわたしが幼い頃に母の傍らで過ごしていた時間そのもの。
当時の母くらい大人になった今、自らそれそのままに再現しているのです。

東京に引っ越してからも、自分の部屋にピアノがあることで
安心感を得られたのは、やはり幼い頃への郷愁の中に
ひとり身を置くことができたからかもしれません。

ピアノも編みものも、教本に倣って1音ずつ(1目ずつ)
かたちにしていく時間を地道に重ねていけば
いつしか1曲(1枚)の作品が出来上がり、そこには
何となく自分らしい味わいみたいなものが乗っかっているという
行程そのものが似ているところも、きっと気性に合っているのだと
思われますが、編みものをする行為を介して
わたしは過去への憧憬にとっぷりと浸ることで、
心の安寧を得ているのだ、ということに、つい先日はっと気づきました。

得てして現在編みものをしている時間も
いずれ自分にとって手放しがたい、過去の時間となるのです。

思い出されたのは随分前に手に入れた、葉っぱの坑夫さんから出版されている
「Strings; 糸ごよみ 1800年代、2人のヤカマ・インディアン女性の記録」。
(さらに原書はこちら。"Strings: The Lives of Two Yakama Women in the 1800s" )
これは1800年代のヤカマ・インディアンの女性たちが、自分達の日ごろの思い出を
結んだひもに託して、各々の暦を作ったという記録の書。
娘が生まれた時に新しく結びはじめ、結婚するときに
母から娘へひもを渡すという説もあります。

あの時のあの子の仕草、読んでいた本のこと、ちょっとしたことですが
編んでいる途中に起きた出来事が、自分で編んだ1枚にも
見えない痕跡を残しているようにも思います。
長い長い糸を編んでいくことで、とめどなく流れる時間を、現在を、
ちょっとでも記憶に留めておきたいのかもしれません。

でも今日はちょっとピアノも弾いてみようかな、と思います。
なんとなく。


*
写真のセーター。
よぉく見るまでもなく大胆に模様を編み間違ってますが、これも思い出。

1.09.2014

2 0 1 4 . 0 1



いわゆるその年の目標というよりも、自分の中に常々掲げる
いくつかの方針のうち、今年はどれに焦点を当てるかという点で、
ぼんやり浮かぶふたつほど。

心の中に据えられた鉱石のような透明のかたまりが
なるべく澄んでいるよう、きゅっきゅと磨くような気持ちで
毎日を過ごしたいと思っています。

いかにも神秘的な響きに聞こえるけれども、
棚や観葉植物の葉を水拭きしている時に、そんなようなことが
ふと頭の中に浮かぶので、どうやら考えと実際の行動は
わりと単純に結びついているよう。

また少しちがうところでは、
餃子を作るときは、皮も粉から練り打ち伸ばす、
それくらい料理の時間に余裕があるとよいな、だとか。

具体的のようでいて、ざっくりした展望です。
今年も幸多き一年でありますように。

10.27.2013

un carnet de bal






久しぶりに古い映画を観ました。
窓の外には近づく台風。

1937年に封切られたフランス映画「舞踏会の手帖」。
オムニバス(もとは乗り合い馬車の意だそう。)の先駆けらしく、
小気味良く切り替わる舞台設定、登場人物。
やはり主人公がまとう滑らかなラインの衣装の数々に、目を惹かれました。
雪山でのスキーのシーンも、乗馬をするようなかっちりした格好に興味津々。

この映画が封切られた頃、すでに20歳を過ぎていたわたしの祖父。
今や出演する人々も、おそらくほぼ皆この世にはおらず。
映画の中では30を過ぎ未亡人となった主人公クリスティーヌが
16歳の時に胸膨らませた初めての舞踏会を懐かしんでいたりするけれど、
その思いの先の過去は、また更に輪をかけて過去になっていて。

こうして時間がループしたままフィルムに焼きつけられて後世に残り、
ある夜、どこかの国で誰かに見られているという不思議。
映画のストーリーから付かず離れず、
いえ、もう本筋からはすっかり離れているかもしれませんが、
そんなことに思い巡らせています。

last saturday my grandpa passed away at the age of 100.
i couldn't crack his white leg bone as it was so strong at his funeral.
looks like he's still living...




10.22.2013

6 days in portland



minamoのツアーに合流するかたちで約1週間portlandに滞在しました。
3人家族のMarcusのお家にはかわいい4歳のGemma。
伝えたい気持ちに言葉が追いついてなくって、かわいかったなぁ。
手をつないで散歩したこと、木の葉をちぎってくれたこと、
ピンクのスカートを褒めてくれたこと・・・日本に帰ってからも思い出してます。

minamoがSeattleでライブのため、1日不在の際には
RyanがColumbia River Gorgeに連れていってくれました。
前日、Dannerのfactory shopでちょっとおしゃれのつもりで
買ってもらったブーツが、思わぬトレッキングに大活躍。
落葉がまじるやわらかな土を踏みしめる感触や、
倒木に腰掛けて食べたサンドウィッチ。
朝食に出してもらったQuinoaに甘く煮たいちごを載せたの、
作り方を聞いておけばよかったな。

DowntownにあるPublication Studioでは、お店の女の子2人にしゃべりかけたら
親切にも、original guide book をその場でプリントして、
ささっと製本して手渡してくれました。
レストラン、ショップ、おすすめの公園リストほか、Mike Millsなどによる
8篇の短篇も挿入された、なんとも気の利いた1冊。
さっそくそれを手におすすめのコーヒーショップCourier Coffeeへ。
ちょっとした、でもportlandならではの時間を過ごすことができました。

Marcusのお家の近くAlberta streetではminamoが教会でライブをするまでの時間
楽器やさんで、譜面台やふしぎな楽器(工具?)をみたりして
秋色に染まる通りをそぞろ歩きながら、皆でブリトーをもりもり食べたり。

東京でにわかブームのportlandですが、実際に土地に降り立ち
日常を過ごしてみると、思っていたよりずっと自然に、ちょっと雑なくらいに
いわゆる健康で過ごしよい毎日を、自分のペースで各々過ごしていました。
そもそも光の色がまったく違うので、見える景色も全然違うのです。
どれだけ近づこうとしても、決してその距離は縮まらないなぁと実感。

帰国翌日は夫とふたり、portlandが恋しくて、悲しいとも言えぬ
なんとも切ない気持ちを抱えながらお家で片付け。
かわりに他の国から東京へお友達を迎えるときは
どうしたものかなぁ、と考えるきっかけにも。
何より、まだまだわたしの世界がひろがりゆくことに感謝。


i know i never be able to describe the peace of little water falls.





9.05.2013

夏 の 終 わ り


(* ムービー再生すると、ちょっと音が大きいです。)


「今年も浴衣に袖を通さないまま、夏は終わってしまうのかしらー。」
と折につけ、うらめしそうに言い続けていましたら、
先日無事、近所の盆踊り祭に連れていってもらいました。

地元の方による、盆踊りの先導チームの列を遠目から
見よう見まねで、ずいぶん長い間踊り続けました。
(踊りと言えるまでには、かなり遠い道のり...。)

言葉も交わさず一緒に踊っているだけで生まれる
人と土地と空気との一体感。
これはきっと盆踊りならではの、まさに祀りのかたちなのだろうなぁと
心の底で感じました。
屋台も商店街主催だからか焼きそば¥200- などとても良心的。

小さい頃は、近所の公園で8月末に開かれる盆踊り祭に
毎年欠かさず参加していたことも、体感として残っているからか、
これはきっと毎年続けて参加するごとに、趣が増しそうな予感です。

来年はもうちょっと上手に踊れますように!




8.01.2013

walk around vienna




ウィーンからザルツブルグ、国境を越えてチェスキークルムロフ、
またオーストリアに戻ってリンツ、最後にもう一度ウィーン、と
巡ってきました。

どうしてもずっと行きたかったウィーンの街並は
散歩しているだけでも、充分にその雰囲気を楽しむことができました。
歴史ある建造物をそのままに、信号のそばにはラベンダーが植わっていたり、
静かな郊外に点在する公園、たまたま見つけた楽譜屋さん、
宿泊したホテルの近くにはドヴォルザークの住んだ家があったりと、
街全体が落ち着いていていました。
地下鉄も過剰なアナウンスなど一切なく、浮ついていない印象。





土曜日の朝だけ開かれるNaschmarktという朝市では
ちょっと個性のあるモチーフのピンバッジや
お花や女の子を象った古い紙、
ピンクとむらさきの色合いがよい、ローウェストのワンピースなどを
見つけることができました。

リンツでは夫の仕事仲間の方達が、丘の上のお城にあるレストランを
予約して下さっており、いろいろとお話ができた上に
地元の雰囲気をそのまま味わうことができました。
夜風に吹かれて、外でビールを飲みつつ、それぞれの子供の頃を
思い出したりしておしゃべりは尽きず。



もちろんウィーンでは、シェーンブルン宮殿など歴史的な場所も訪れ、
その広大さ、絢爛豪華な室内装飾に言葉も出ず、
そのあとゆっくり森を散歩して、心静めたり。

ウィーン最終日は趣をかえて、若い人達による旬なお店巡り。
リンツで教えてもらったWEBサイトwww.7tm.at が、とっても役に立ち、
ひとつ見つけた素敵なショップから次から次へとつながって、
オーストリアのものではないけれど、きっと日本では見かけないお洋服や
勢いあまって1-9-7-9というBerlinからのスウィムウェアを購入。
お店の娘も親切にして下さって、とても印象に残りました。

わたしも海外から表参道へとやって来るお客さまに
こんなふうに旅先の記憶に留めてもらえたらいいな、と改めて。




6.22.2013

i w o n d e r







結婚のお祝いにと、塩川いづみちゃんから頂いた自画像。

初めて目にしたはずなのに、

これまでのたくさんのことを思い出すという不思議。

5.31.2013

奈 良




かろうじて咲き残っていた牡丹の花。

聖林寺の十一面観音菩薩の拝観は2度目でしたが、
やはりとても優美。
前に訪れた時も雨でした。

よもぎうどん食べながら、
隣りの座敷にどやどやと入ってきた団体客の方々からの注文、
あたふたする店員さんとのやりとりに、つい見入ってしまいます。

腹ごしらえをして長谷寺へ。
長い階段をえっさえっさと。

そのあと大野寺の前を流れる宇陀川へ。
対岸の岩壁にうっすら浮かび上がる弥勒磨崖仏。




私たち以外に人気もなく、小雨の中
露をたたえる木の葉や、緩くカーブする川の流れ、
全てが調和していて、静かな心の内に、ことばも浮かびません。

幼い頃から休日となれば、家族でよく京都や奈良へ
お寺を巡っていましたが、当時その行き先にまったく興味がなく
ただただその道中を楽しんでいました。
今も車窓に流れる景色に心を解放するのは変わらずとも
ようやっと、お寺のことや仏像のことなど
少しは知識として、関心が湧いてきたようです。

あとは家族でショートトリップのよさを改めて。
たぶん後々思い出すことといえば、きっとこんな日のこと。




5.10.2013

パ イ ン






先日、新国立劇場にてバレエ「ペンギン・カフェ2013」を鑑賞。
3部構成でいずれの世界観にも魅了されました。

特に印象的だったのは、やはりペンギン・カフェ。
原題には’Still Life’ at Penguin Cafeとある通り、
人類によって命を阻まれる絶滅危惧動物に、視点が寄せられています。
そういった社会問題を底辺にしながら、弾むオーケストラと愉快なステップ。
すっかり世界に浸りながらも、随所で目をそむけてはならない命題を
突きつけられるような感覚を覚えました。

何より熱帯雨林の家族の描写では、壮大な音楽に包まれる中、
言葉よりも強い、真っ直ぐなメッセージに心揺さぶられました。
これまでにバレエ鑑賞をしたことは数えるほどですが、
自分にとって新たなバレエを楽しみ方を見つけた日にもなったようです。
最近はずっと家で、The Penguin Cafe Orchestraのアルバム集を
繰り返し聞きながら、舞台を反芻して(踊って)います。

ペンギン・カフェのバレエを観た翌々日に
沖縄のペンギン食堂から届いたパインをお裾分けして頂いたことも
何となく自分の中で、繋がりのある出来事に。

あっという間に5月。
随分日も長くなって、昼寝の言い訳がしやすい季節です。

3.21.2013




ようやっと気に入った長傘を購入。
あんまり高価だと、もし出先でなくした時の気落ちが大きかろう、
とはいえ何時なくなってもよいような使い捨ての感じも好きではなく。
と、長らく傘を見ては迷っておりましたが、
今日お仕事の合間にぱっと出会いました。

銀座で購入しましたが、京都で作られているものだそう。
もうすぐ思い出の場所として、銀座からなくなってしまう松坂屋で
見つけられたことも、内心嬉しいです。

百貨店でお買い物。
この言葉の雰囲気はとても好きなのですが
どんどん幼い頃のそのイメージからは変化していますね。

もちろんデパートには、おおかた既製品が並んでいるのですが、
その中から気に入ったものを見つけ、長く大事に使おうと思いながらの
帰り道の気分はとても好きです。

大仰なものではなく、機能性があって丈夫なもの、
おばあちゃんになっても使えるもの、
・・・といった自分なりの基準にしっくりくるものを
お買い物したときの爽快さをここに記しておきます。

本当になんてことない傘なんですけれど。


2.14.2013

2 月




すっかり遠く遠くなってしまった大学生活を思い出す。
先日ひさしぶりに訪れた母校にて。

入学して間もない頃、キリスト教の授業で
まだまだはしゃいで落ち着かない女の子達に向かって、
先生がおっしゃったのはこんなようなこと。

「ここに座っている皆さんが、50年後に全員
 ここにこうして生きていると思いますか?」

毎日生きていることと、常に背合わせであることを
指し示された瞬間。

それでもそんなことは自動的に頭からすぐに離れ、
日々甘えた気持ちが先行し
わたしの大事な人はずっとわたしを見てくれていると
どうしてもそう思い込んでいた。
大学を卒業したのも、遥か昔なのに
まだ何もたいして変わらないものだと、どこかで未だ思い続けている。

でも時間はちゃんと流れ続けている。
先月、先々月と続けてわたしの2人の祖母が天へ召された。
一点の曇り無く悲しい。といったような、へんな気持ちが
電車に乗っているとき、家について椅子に座ったとき、
思わぬ瞬間に見え隠れしながら、しばらく過ごしている。

ただ、時折ゆらゆら揺れる感情を、分かち合える家族や友達が
わたしの心の近くに今、いることを心の底から幸せに思う。
それからわたしの祖母は、どちらも自分の人生を
全うしたのだと言い聞かせて。

書いたらすっきりするかと思ったけど
また泣けてきたなぁ。

ふたりの祖母の心強い応援を背中に受けながら
今日も明日も生きていく。うんうん。


10.28.2012

好 き な 服




この時期、お洋服の買い物欲を止めるのが至難の業。
ちょっと空いた時間にふらっと入ったお店で
うっとりするようなお洋服に出会ったり。

いつもどこでお洋服買ってるの?と聞かれても
咄嗟に答えることがとても難しい。
色んなところで、気ままに買うし、
洋服好きのお友達にたくさんもらうこともあれば、
10年前に買った服も気に入ったものは毎年袖を通しているし、
両親や祖父母の服を勝手に自分のものにして着ていることも
多々あるので。

でも最近いちばんよく買っているお店は
新潟の古町にあるLIGHT CAVE  ATTIC OF ALICE
ヨーロッパ、北欧の古着を扱っていて
80年代あたりが中心と思われるけれど状態もよいものが多く、
今は生産されていないシャツ生地の風合いや、ワンピースのラインに、
出会ってしまった!とこれまでに何度運命を感じたことか。
年に数回訪れる程度なのに、すっかり顔も覚えて頂いたようで、
普段自分では選ばないメンズテイストなものなど
勧めてもらったりすると、さらに楽しみが広がって
ますます虜になっている。

その他、いいなと惹かれるお店もやはり
そのお店の個性を打ち出すデザイナーの方の世界観や
買い付けられている方のセンスが
確固とした独自のものであるところが共通点のような。
どうしても憧れてしまう、わたしにとって未知の部分が
たくさんあって欲しい。

20代の頃に、お店に並べる書籍だけではなく、雑貨を選んだり、
オリジナルのものを作る仕事をしていた際、
つい「かわいい!」と口を滑らしてしまうことを
その都度咎められた。
どうしてそれがかわいいと思うのか、考えてみて。と。

確かに、自分が心からいいと思えるものは
よく売れたように思う。
素材、かたち、使い勝手、価格、長く使えるかどうか、
他にはない何かがあるか...
結局のところ感覚的だったけど、今思えばよい経験をした。

でもどうしてそれが好きなのか、かわいいの理由を
根っこまで掘り下げて考えるのは、やっぱり今も難しいまま。


10.26.2012

よ い 朝






夏の湿度が消えたせいで、思考が明晰のよう。
暑いうちは勢いでざーっと済ませていたはずのことも
ひとつずつ立ち止まって、その意味を考えたりする頃。
誰かの悲しみも、風にのって伝播してくるくらい。

また武満徹の「サイレント・ガーデン 滞院報告・キャロティンの祭典」を
読み進めているところでもあるので、余計に普段の生活に
耳を澄ませる習性にある。

ーー 病室には生活音が無い。例えばペットの鳴き声、
   水道の皿を洗う音、遠くの子供の声 etc.

当たり前に目の前に在るものへの愛おしみほど
分ちがたいものはないと、朝の光を見るにつけ思う。
どうにか輪郭づけて、ほらほらと見せようとも
まだ少し寝ぼけている間に、あっという間に消えてしまう。

病院というと、思い出すのはやはり祖母のこと。
きっと頭の中は変わらず快活であるのに、
いまや言葉が、体が、ついていかない。
この間、顔を見て帰ろうとしたところ、
祖母の今ある力を残らず振り絞り、私達を呼び止めた声は
すごく強かった。

もう10年以上も前になるけれど、今は亡い祖父を
当時は車椅子に乗って外出していた祖母と2人で見舞った際、
今は面会できないと病院側から告げられた時の、無音の長い長い廊下。
あの時も、祖母の強い意志でなんとかかんとか
祖父に会ってから帰路についた。

そんなことを思い出す傍ら、今朝もちゃんとお腹が空き、目が覚め、
朝ごはんを食べ、今日は誰に会おうか、夜は何を食べようか、と
まるで何とも思っていないように当たり前に、
私は今を幸せに暮らしている。